冬来たりなば、春遠からじ。

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宮部みゆき「理由」読了。そこには魔物がいる。

宮部みゆきの作品は、例えるなら坂を転がる小石。

最初はゆっくりもたもたと進んでいく小石も、気が付けばスピードを増し、いつか止まらなくなる。決着がつくまで。

 

宮部みゆきの作品が多くの人に愛されるのは、読後の爽やかさと温かさが何物にも代えがたいものだからかなって思います。

あとは、題材選びとそれを料理するテクニックの凄まじさ。

1990年代の作品を今読んでも全く古臭さを感じられないんです。

携帯電話でなく固定電話を使ったり、アドレス帳や電話帳を1ページ1ページ捲ったり、喫茶店で電話が来るのを待ったり。そういう時代の古さは感じますが。そこに生きる人、その人が持つ悩み苦しみは全然古臭くない。

今を生きる人たち、若い人たちも大人も老人も、みんなが持っているようなもの。それを描くからこそ長い間多くの作品を生み出してはベストセラーになったり映像化されたりしてるんじゃないかなって、思います。

 

でも、レビューを見たらまあまあ、意外や意外。結構否定的なものが多い。私が見た楽天のページが悪かったのかもしれないんですけれど。

ただあんまり人のレビューってあてにはしていません。

 

よく言えばボリュームのある、悪く言えば長ったらしい物が多いんですよね。彼女の長編。

長い文章を読みなれていない人には苦痛かもしれないし、読みなれている人でも少ししんどいかもしれません。

それに物語序盤は全体が不透明で何が起きるのか、何が起きているのかわからない。

それが不安だしもやもやするし。そこで投げてしまうか、それとも知りたいと思って読み進めるか。そこが分かれ道なのかもしれません。

私は学生時代に嵌った京極夏彦を思い出しましたけどね。読んでも読んでも進まない。終わらない。そう思いながら読み始めて、だけど気が付いたら物語は佳境。そうなったら中断してしまうことが逆に苦痛になってしまう。ページを捲る手が止まらない。

 

でも、私の言う「魔物」って、そういう作品の魅力とか、読み始めたら止まらない不思議な力とか、ここではそんなんじゃないんです。

 

宮部みゆきっていわゆるミステリー作家です。

そこには大小差はあれど「事件」と「謎」があるんです。

そしてそこには原因となるものがある。それを引き起こした、生み出した人がいる。

でも、そのきっかけって些細なことなんですよ。ほんとに。

 

よく犯罪者の自供の報道とかで「出来心だった」「つい魔が差した」っていう理由が流れると思うんですけども。

宮部みゆきの小説にもその「魔」がいるんです。

作中で事件を起こす人は、最初から極悪人だったわけじゃない。性根がねじ曲がった人も中にはいたけど、生まれた時から大量虐殺を考えたり、理由なく人を殺したり、そういう化け物染みた人っていうのは今まで読んだ中であんまりいませんでした。全作品読んだわけではないですけどね。

でも、良くも悪くも人間臭くて、根性ねじ曲がっていても、正気じゃなくても、なんというかそこまで「人間」を逸脱していないような。そんな人ばかりだったように思います。

そういう人たちが、「魔」が差して、罪を犯す。事件を起こす。

小さな子供も若い女性も老人も。老若男女関係なく。

 

でも、それって作品の中だけの話じゃないんですよね。

そこにもいれば、あそこにもいる。ここにだっている。

私の中にもいる。

 

先日読み終えたのは「理由」。

直木賞受賞作でもありますし、ドラマ化もされてるので知ってる人もいるんじゃないでしょうか。

こんな本です。

【内容情報】(「BOOK」データベースより)

事件はなぜ起こったか。殺されたのは「誰」で、いったい「誰」が殺人者であったのかー。東京荒川区超高層マンションで凄惨な殺人事件が起きた。室内には中年男女と老女の惨殺体。そして、ベランダから転落した若い男。ところが、四人の死者は、そこに住んでいるはずの家族ではなかった…。ドキュメンタリー的手法で現代社会ならではの悲劇を浮き彫りにする、直木賞受賞作。

 

赤の他人が四人ばかり集まって、高級マンションの一室で生活をしていた。そしてなぜか殺される。

東京。都会。超高層マンション。いろんなものの縁が薄い世界を舞台に起きる事件は、謎が謎を呼ぶ。

それを解き明かしていく話なんですが、まあ詳しいことが知りたいって興味持った人は読んでください。

 

私がここでひやっとしたりぎくっとしたりしたのは、その「縁が薄い」ということ。

家族でない人たち、いわゆる他人が集まって暮らす。家族同士が住んでいるファミリーマンションでも、隣人同士は他人。

 

家族の縁も、地域の縁も、下手したら同世代や友人との縁っていうのも、私には軽くてうすっぺらものなんじゃないかって、最近思います。

実の親に言われましたしね。

「いざとなったら家族とか親類とか身内とかそういうのと距離をしれっと置いていく。自分のプライドとか倫理とかそっちに重きを置くとこがあんたにはある」って。

でも間違ってないとも思います。

友人知人も環境が変わればそこで自分から連絡取ろうってあんまりしませんし。

地域の縁もそこにいて結んでいたほうがいろいろと面倒くさくないからかかわってただけですし。

家族も親戚も血のつながりとかでいろいろとかかわりがあるから付き合っているだけ。

これが誰も知らない遠くの町で一人でいたら自分から積極的に結んでいこう、維持していこう、付き合っていこうなんて思いません。

仕事や生活に支障がない程度にしか付き合わないでしょうね。というか、現在進行形でそうですし。

でもそれでいいとも思ってます。

それでいいと、ずっと思ってました。

ただ、この本を読んで。

そしてある少年のセリフにひやっとさせられたんですね。

「僕もおばさんたちを殺したんだろうか」

 

あ、と思いました。

私だ、って。私も「僕」だ、って。

きっと、高層マンションで四人を殺害した犯人も、「魔」が差したんです。

で、このセリフを言った「僕」はたまたま「魔」が差さなかった。

じゃあ、私は?

 

罪を犯さない理由って、事件を起こさない理由って、いろいろあります。

罪を犯せば罰を受けるから。逮捕されるから。経歴に傷がつくから。今の生活が壊れるから。家族に迷惑をかけるから。今までの生活が送れなくなるから。罪を犯して得られるものとそれを犯して失うもの。どちらかを常に天秤にかけて、そうして事件を起こさないほうを選ぶ。

無意識に私たちは選択しているのかもしれません。

というか、たぶん私は選んでいます。

あまりにもハイリスクローリターンすぎるから、起こしてないだけなんです。

でも、その「罪を犯す」ことに対してのハードルが、なんの因果か目の前で倒れてしまったら。もしくは予期せずに強く踏み切りすぎてしまって高く飛び上がってしまったら。

たぶん、そういう状態が「魔が差す」ってことだと思うんです。

 

誰もが問題を抱えてて、誰もが可能性を胸に秘めていて、だけれども平和な世界を送っている。

失った人、破滅した人、そういう人を創作上でも目の当たりにして、今の自分の平穏平和で窮屈な生活がものすごく価値のある大切であたたかなものに思える。

 

宮部みゆき作品の魅力って、そう思わせてくれるところにあるんじゃないかなって、思います。

 

 

 

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